足元をひんやりと撫でてゆく風、白い息に濁った雲で埋められた空、この冬はその力が発 揮されそうな気配を感じ始めました。 長岡京市に来てもうすぐ2年ですが、1年目は覚悟していた京都の冬に肩透かしをくらった ような暖冬でした。
子どもがまだ小さく、家の中で過ごす時間が多かったからかもしれませ ん。「来年はきっとこんな風に…」と思い描きながら。 “妊婦さん”でいる時、初めての出産を控え、ただただ無事に産まれてきてくれますように と、その一心でした。いつになくナーバスになったり、以前のように動けない自分の体に戸 惑ったり、周りから見ているだけだと気づかない変化に気持ちがなんとなく不安定になり、 思い返せば泣いてばっかりのマタニティ期間でした。そして待ちに待った産声。なんとなく か弱いようなこそばゆいような声は、今でも耳に残っています。
その後の慣れない子育ては、今までになかったいろんな感情を生み出してくれました。そ れでも、そんな親の感情の変化など待ってはくれず、日々1皮ずつむけていくかのように成 長していく子。小さくてもその生命力はキラキラ輝いていて、指の先も足の爪先も、この身 体のサイズでは物足りないのだと言わんばかりに、たくましくあります。 それはとても幸せなことなのですが、どうしてもやるせないニュースを耳にすることも多 く、ふと “この時代の、この世界に産まれてこの子は幸せなのだろうか” という思いが頭 をよぎることがあります。
社会には様々な問題が山積しています。 子どもの教育や文化格差、貧困、虐待、男女格差、人種差別、廃プラスチックや温暖化など の環境問題、表現の自由や移民受け入れなどに関する政治的問題… 今年世界中を苦しめたこのコロナ禍で浮き彫りになったこともあります。(もう正直口にし たくもないですが…)そもそもSDGsが目標ではなく、あまねく達成された世界になるに は一体何年必要なのでしょう。
何も知らずに産まれた時からこれら全てを含んだ社会に生きることを背負わされるなんて、 なんだか理不尽な気がするのです。 とはいえこれらの問題は今この世代に始まったものではなく、私達も、親や祖父母の世代 も、その時代の問題の渦中に産まれ、生きてきたと言えるのでしょう。様々な社会や情報に 触れる機会が多くなるにつれ、これまで放置し黙認してきたことが、自分には関係ないこと だと素通りすることができなくなっただけかもしれません。
私ももっと前は自分自身の生き方に必死で、周りのこと、特に社会や環境について十分に 考える余裕がなかったように思います。でも今は、広く子どもが生きる世界について考える ことが増え、当然我が子だけではなく一つ一つの命が生きていくことを大切にしたいと思っ ています。
そしてその中で願うことは、この世界に生まれた子どもたちが、社会の問題に目を向け、一 歩でも半歩でも自分の力で行動を起こし、一人の力を信じ、小さくてもちゃんと声をあげら れる子に、ということ。 それがどんな声か、どんな行動かは一人ひとりが決めることですが、知らぬ顔で素通りでき るようにはなってほしくありません。その為に、家族や社会の人間が、一つ一つ丁寧に向き 合って話してあげることが必要だと思っています。
私も、大きな声はあげられなくても、小さくてもそばにいる子の耳に届くように、そう思っ て子育てに関わろうと思っています。
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