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  • 上兼栗 つむぎ

夫婦の絆


 私の両親は大変若くして結婚し、おおむね仲の良い夫婦でした。ケンカもよくしていましたが、お互いの他に頼れる人もいなかったのです。ですから本気で別れようとしたことはなかったと思います。

 母は京都市の真ん中で生まれ育った町の子です。明るい反面興奮しやすい性格、行動力はありますが思慮は浅く享楽的、押しが強くていつも自分の尺度でしか物事を量れないので、おせっかいの押し売りに父は始終辟易していました。

 父は広島県の山中で生まれ育ちました。山の民らしく体は頑健、寡黙で勤勉、辛抱強いが大変頑固でした。母は父の健康を気づかって、生活習慣や食習慣について常に小言を言っていました。しかし全くもって馬耳東風でした。

父は武骨な中にもロマンチストな一面を持っている人でした。反対に母はあけっぴろげで、人もそうあるべきだと思っています。それで父の内面をこじ開けようとジタバタして、耐えかねた父が反抗すると母がキレる。こういうことの繰り返しで結婚生活が過ぎていきました。

父のお父さんは父が小学三年生の時に亡くなり、お母さんも中学三年生の時に亡くなりました。ですから父は肉親に心をさらけ出すことに慣れていなかったのかもしれません。母は父が58歳で亡くなるまで諦めず、頑なな父の心に体当たりし続けたのです。

このように二人は、生涯分かり合えずに終わりました。確かに世の中を渡って行く相棒としてはよかったのでしょうが、夫婦としてはどうだったのだろう。配偶者をを自分の一番の理解者でいてほしいとは思わなっかたの?二人は夫婦として幸せだったの?

 その答えは父の臨終間際の光景にありました。抗がん剤の副作用から脳出血を起こした父、延命を望まなかったので何の処置もしませんでした。意識が無くなると一般病室に移動して、母と私でただ父の鼓動が止まるのを待ちました。早くも父の呼気から吐き出された死の匂いが部屋中に立ち込めていました。しかし頑健な父の心臓はなかなか止まりません。

意識が無く苦しんでいないことが私にはありがたく、正直自分も辛かったので「早く終わりにしてあげてください」と天に祈っておりました。

母にも「お父さんはもう苦しくも痛くもないから安心して」と声をかけていました。

母は「そうやな、そうやな」と応えながらも、荒い息と高熱で渇ききっている父の唇を水に浸した脱脂綿で押さえ続けていました。

「お父さん、かわいそうに唇が割れてしまう」

私は、ああこれが長年自分の命を預けあって厳しい人生を共に越えてきた夫婦の絆なのだなぁと、母と父を尊敬する気持ちが湧いてきたのです。

父が亡くなってから14年、私は毎月お墓参りを欠かしません。今なお父を慕う気持ちはもちろん、そこまで父を想った母の境地に近づきたいという憧れがあるからだと思います。

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