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  • 上兼栗 つむぎ

学校嫌いの私の回顧録

 私は幼稚園時代から高校まで学校へ行くのが嫌でした。何が嫌だったのか説明することはできません。授業は面白い時とそうでない時が半々でした。成績は普通で、勉強で困ったことはありません。給食も好き嫌いは無しです。親も放任でしたので準備物が揃わず、宿題はほぼ毎日やっていませんでした。しかし先生方は概ね親切にしてくださいました。

 それなのに月曜日は呪わしく、水曜で一瞬息継ぎ、木曜窒息寸前、早退や遅刻でなんとか乗り切るという日々でした。発熱でもしようものなら仮病も混ぜて一週間は欠席しました。よく熱を出す体質だったことを感謝していました。

 学校時代の一番古い記憶で嫌だったものは、眩しすぎる校庭、床掃除の油拭きの匂い、コンクリートの壁やアルミサッシの美しくないこと、雑巾や便所が汚いこと、掃除道具がボロなこと、とにかくいちいち待つ時間があること。これくらいの不満は種類こそ違えど誰にでもあったのではないかと思います。従順な性格の子はこだわらないのかもしれません。

 確かに私はこらえ性の無い子でした。低学年のうちはマラソンで横腹の痛くなるのに驚いてそれ以上走り続けようとしませんでした。少し大きくなるとその痛みは健康を脅かすほどのものではなくやがて治まると解り、却ってマラソンが好きになりました。しかし学校生活には横腹の痛み以外にも慣れなければならない苦痛がいくつもあり、私はなかなか平気にはなりませんでした。

 母はキレ性で時々集中砲火を浴びせてきましたが、それは全く彼女の自分勝手な理屈に依っていましたので、私は自分を悪い子だとかダメな子だとは思いませんでした。父は何事につけ滅多に叱ったりほめたりしませんでした。ただ私が仮病の時はおでこを触って「微熱がある、休みなさい」と言ってくれました。総じて両親は私の学校生活にそれほど注意を向けてはいませんでした。

 高三の三学期はあと一回遅刻すると落とす単位をいくつも抱えながら、なお出席の返事だけして後ろのドアから抜け出していました。このようにして私はようやっと高校まで卒業しました。何がそんなに嫌だったのか。15年間の学校生活を振り返ってもハッキリとは言えません。

 時は過ぎて大学は34歳で入学しました。通信教育の自学自習スタイルは私によく合っていました。興味の赴くままに関連図書を読み進め、自分で計画したフィールドワークにも出かけました。学ぶことが楽しかった。テストはもともと好きなので学校へ行く日は何の苦痛も感じませんでした。三人の子を午前いっぱい留守番させている気ぜわしさはありましたが。スクーリングではつまらない授業をする教授もいました。大人になった私は相手にも事情があろうと思えたので耐えられました。しかしそのコマに払った授業料とその時間を捻出した苦労を思えば悔しさが残りました。

 今日、学びには色んな道が用意されています。選べる人は幸せです。選べない人もそれなりです。ただ思うことは、できることなら基礎学力はつけてあげたいものです。それが学ぶ喜びの種となり、ある人にとっては自由への鍵となるからです。



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